■塩田耕司
1963年1月 大阪生まれの大阪育ち。
妻と小学校3年生の娘、幼稚園の息子の4人家族。
職場は自宅から車で10分の実家兼零細町工場。
ここで今では一人暮らしの母親の面倒見ながら仕事しています。
現在、従業員は2人。
一人は私がオムツをしている時からウチで働いてくれているベテラン職人。
もう一人はウチへ来て2年目の弟分。
そんな私は、江戸川乱歩の小説とアニメはタイガーマスクの暗さが妙に好きだった少年時代。
ビートルズ、キッスばかり聴いてた中学時代。
映画にはまった高校時代と平凡な日々を過ごし、受験勉強とは思いっきり無縁の近畿大学の理工学部へ進学。
ろくに勉強もせず、アルバイトと読書、映画三昧の学生時代を過ごす。
この頃、山田太一の「早春スケッチブック」はビデオのテープが伸びるほど観た。
何の変哲もない自分を変えたいと就職前にヨーロッパへ一人貧乏旅行。直行便なんてない時代。行きは北回り、帰りは南周り。大韓航空でなんとか無事帰国。
そんな、私が就職したのは三菱電機の総合代理店。
会社では空調や照明という設備機器の営業を担当。
客先は一人でやってる設備屋さんから上場している大手設備業者まで。
ここで多くのことを学ばせてもらった。
9年勤めたけど、出世に興味もなく、サラリーマンには向いてないと思い辞めてしまう。
結婚して半年後だった。
結局、家業の鋳物工場を手伝うことになり、現場雑用をやっていた。
そのうち、バブルが崩壊し、平成不況がやってきた。
当時は、社長の父親とベテラン職人3人がいたので仕事量の減少と共に余剰人員が。
そうまぎれもなく私がその余剰人員。
そこで独立して飯食うことを考え、社会保険労務士の資格取得を目指すことに。
合格するまでの間、FCのしくみを勉強するため、軽貨物運送業を開業し、車に乗りながらテープ学習した。
軽貨物は以前の会社の後輩や学生時代の同級生が仕事から依頼がきたのが嬉しかった。でもFCの本部からの仕事じゃ食っていけない。結局、FCやるなら本部側にならなきゃ。ということを身をもって知った。
その後、案の上、名古屋で爆破事件があった。
時には、高知、ある時は千葉と長距離の依頼があった時は、長時間テープが聞けると思ったら、高速ではエンジンの音でラジカセの音が聞こえなかったことも。
それでもなんとか平成13年に社労士合格。
翌年1月自宅を事務所に開業登録し、いよいよ営業しようとした矢先。 父親が急死。残ったのは多額の負債。駆け出し社労士ではとても返済できる額ではないため、悩んだあげく工場を継ぐことに。
しかし、経理や見積もりなどの大半は父親がやっていたため、昔の書類をひっくり返しながら見よう見真似のスタート。
とても社長と言えるものではなく、ただのシャチョ−だった。(今でもそうだけど)
それからは、客先の倒産不渡り、仕事中、車での事故、ベテラン職人の病気、退職・実家が放火にあったり、祖母の介護、病死。といろんなことが起こった。
仕事でもまるで父親が教えてやろうとしているかのように、新規客からありとあらゆる種類の仕事が舞い込んだ。(もちろんこちらが営業したからだけど)
中には、儲からないどころか、大赤字になる仕事もあった。
たちの悪い客もいた。どうりで親父がそんな仕事やらなかったわけだ。
この5年でいろいろ勉強しました。
借金は残してくれたけど、今ではこんな経験ができたことに感謝しています。
でも、零細会社ってこんな形でしか、息子に事業継承できないパターンって山ほどあるのさ。
そんな私が、仕事やってて感じたこと、気づいたことをメルマガで発信することにしました。
何を書くかはわからない。 ただ、つくづく思うのは一人だろうが、数百人、数千人の会社だろうが、社長さんてスゲエーってこと。 組織から決まったサラリーをもらえるわけじゃない。 つまりピン張って生きてる人に対するリスペクトを込めて本音で書きたいと思います。
「平成17年8月よりメルマガ【目指せ!超下請け】スタート。
平成18年1月、作家、小関智弘氏と対談。CD好評発売中。」
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